Master
lnterview
インタビュー

Sumaセット(冠動脈用):海外での手術のときに常に携帯する
須磨先生のオリジナルの手術器具
 

須磨久善先生
1974年3月 大阪医科大学卒業
同年4月 虎の門病院 外科レジデント
78年4月 順天堂大学 胸部外科
82年7月 大阪医科大学 胸部外科
84年1月〜6月 米国ユタ大学 心臓外科留学
89年2月 三井記念病院 循環器外科科長
92年5月 三井記念病院 心臓血管外科部長
94年8月〜 ローマカトリック大学心臓外科客員教授
96年10月 湘南鎌倉総合病院副院長
98年1月 湘南鎌倉総合病院院長

2000年5月 葉山ハートセンター院長
04年11月 順天堂大学心臓外科客員教授
05年4月 (財)心臓血管研究所スーパーバイザー

業績 海外・国内での学会発表多数.冠動脈バイパス手術症例を3,000以上経験し,1986年に世界に先駆けて胃大網動脈グラフトを使用し,各国で臨床応用が広まる.1996年,日本初のBatista手術を施行.以後拡張型心筋症に対する,左心室形成術を多数行う.海外での公開手術多数.

虚血性心疾患の外科治療
過去,現在,そして未来
須磨久善先生(心臓血管研究所スーパーバイザー)に聞く

インタピュア:吉岡成人先生

世界の注目を浴びて,日本を代表する心臓外科医である須磨久善先生に,外科医としての歩みや,現在の,そしてこれからの医療についてどうお考えなのか,おうかがいしました.

須磨久善 先生
Hisayoshi Suma
吉岡成人 先生
Narihito Yoshioka

医師に目覚めた頃
―――先生が医師になろうと最初に思われたのは,いつごろですか.
須磨 中学校2年生ぐらいのころだったと思います.親戚縁者,周りにぜんぜん医師はいなかったですから,医師にならなければならないというプレッシャーはありませんでしたし,医師になることがイメージできる環境でもなかったので,入った中学は関西の,幼稚園から大学まである,入ってしまえば大学は卒業できるというところだったのです.
―――先生は神戸のご出身ですね.
須磨 神戸に住んでいて,甲南という学校です.その大学には医学部がなかったので,中学に入学した段階で,医師という選択肢は,親も私も考えていなかったのです.医学部に行くのだったら,関西なら,灘や甲陽などの受験校がすぐそばにありましたので,通るかどうかは別にして,受験していたと思うのです.まったくそういうことを考えずに甲南に入りました.医帥になりたいとも,ならせようとも思っていなかった.たぶん,それがよかったのだと思います.
大学まで一気にいってしまう前提でものを考えていますから,どこの大学を受験するとかは全然,考えなかったわけです.ほんとうの受験校ではなかったですから.中学に入って何となく考え始めたときに,いったい,どういう社会人,職業人になるのかに,ストンと想像がいってしまったのです.
そのころは,ちょうど日本が急成長していた時代です.東京オリンピックがあり,いわゆるモーレツ社員という,人を押しのけてがむしゃらに前に進む男が立派だという価値観の時代だったのです.
ところが,自分を見てみると,まったくそうではない子どもで,ケンカは苦手,どちらかというと,ホウキを持って追いかけ回されるほうで,人と兢争するのもイヤだし,してもあまり勝ち目がないなという子だったのです.
どんな仕事をする社会人になったらいいかと考えたときに,まず,サラリーマンは無理だろうと.できるだけ,少ない単位の人間関係の中で,幸せに生きられて,しかも,あまり社会的にも見下されない仕事ができたらいいなと.そういう発想から,取捨選択していって,ある日突然,「医師っていいんじゃないか」と.究極は1対1の関係です.自分と患者さん.そして相手は,困っていて,頼ってきている.その人を元気にしてあげられたら,当然,喜んでもらえるし,医師ならばみっともない仕事もないと考えました.
それで,ある日突然,親に「医師になりたい」と言いました.親はビックリして,「おまえ,それなら学校を聞違えたよ」(笑).そのころは---今もたいして変わっていないと思いますけれど---,3年に1人ぐらいしか,医学部に行く
人がいなくて,しかも,2浪3浪してやっと,「あいつが医師になったよ!」という学校です.まったく医学部向きではなかったのです.けれども,入ってしまったし,その中でなりたいと言い出したので,「やってみたら」と言ってもらって,幸い,浪人もせずに行けたのです.
心臓外科医になろうとしたきっかけ
―――心臓外科医になろうと思ったのは大学に入られていつごろですか.
須磨 大学5年生ぐらいでした.そのころ,冠動脈のバイパス手術がアメリカで非常に注目され出したところで,大学の図書室でアメリカのジャーナルをパラパラめくっていると,バイパス手術のわかりやすい絵が描いてあって,詰まれば心筋梗塞で,血が流れれば心臓が元気になる,しかも死ぬのを防げるという,外科医としては,非常にやりがいのある仕事だから,心臓外科はすごいなと思った.
ただ,そのころ日本はまだ,心臓外科はかなりマイナーでした.
―――当時は,急性心筋梗塞であっても,急性期に造影することは禁忌の時代でしたね.
須磨 そうですね.ですから,胸部外科という科が独立していた大学すら,そうたくさんはなくて,第一外科,第二外科の中の,胸部部門の,その中の心臓班ということでしたね.今みたいに,心臓血管外科学教室などはまったく存在しませんでした.
―――むしろ,VSD(Ventricular septal defect),ASD(atrial septal defect)などの手術が多かったわけですよね.
須磨 そうですね.心臓外科といっても,肺外科の弟分みたいな感じでしたね.まだまだ結核や肺の手術が胸部外科医の仕事で,心臓の手術は,おっしゃったように,先天性の心疾患の手術ぐらい.ましてや,バイパス手術などは存在しませんから,いいなと思ったものの,「あそこに行けば教えてくれる」という場所はなかったのです.
―――医学部の学生の後半に外科医,とくに心臓外科医を志されたわけですね.大阪医科大学で優秀な人は,大学の外で研修をするという話を聞いたことがあるのですが(笑),卒業された後は,大学の医局でも関西の病院でもなく,虎の門病院で外科のレジデンシーを行われたわけですが,それには何か理由があったのですか.
須磨 1つは,東京に対する憧れみたいなものがありました.関西育ちでしたから.
大学のころ,バスケット部とスキー部をやって,最終的には両方のキャプテンをやったのですが,バスケット部では西日本で優勝して,全国大会でも優勝しています.チームメイトに恵まれて強かったのです.ですから,遠征で東京の大学と試合をするということで,東京にはときどき出てきましたが,やはり,何となく華やかな印象がありました.
もう1つは、医師になっていく研修期間に,アメリカみたいな,きちんとした一般外科を学びたいと思いました.大学の教室に入ってしまうと,非常におざなりの,通り過ぎて診て回っただけで,「やってみろ」といわれても,まったくできないような手術しか教えてもらえない,経験できない.そこから,突然,心臓外科医になって,「やはり,お前は無理だよ」と言われたら,戻っていく場所がないわけです.これは因る.最低,外科医ではありたいと,ふつふつと思うようになりました.
実は,6年生の終わりごろには大学の胸部外科の教室に入局すると決まっていたのです.僕が心臓外科医をやりたいのは,皆が知っていたし,教授もかわいがってくださったので,そのままその教室へ行くものだと自分でも思っていたのですが,これもある日突然,やはり,このまま関西で育って,関西の大学に入って,関西の関連病院をウロウロしていたら,自分の人生は一生,関西で終わってしまう.日本に生まれたら,東京は見てみたいし,そのころ関西にはなかった,アメリカナイズされた教育をしてくれる虎の門病院や聖路加国際病院,三井記念病院などに行けるものなら行ってみたいという思いがすごく強くなって,勝手に受験してしまいました.
―――合格された.
須磨 教授は「おまえ,それは困るよ」と言われましたけれど,理解してくださいました.
心臓外科のトレーニングを積む
―――虎の門病院の外科でトレーニングされ,その後,順天堂で胸部外科のトレーニングを積まれて,大阪にまたお戻りになられた.一般外科のトレーニングは順天堂で心臓外科のトレーニングを受けるときに,どのように役立ちましたか.
須磨 最初は「しまった」と思いました(笑).卒業して5年目で順天堂の一医局員になったわけです.助手でもない,いちばん下っ端です.そこには,卒業して1年たった若い医局員がいて,僕よりもよほど,人工心肺の回し方とか,テクニカルタームを知っているわけです.僕は何も知らない.天下の虎の門病院からきた人が,人工心肺も見たことがないの?と.
―――虎の門病院はそのころ,心臓外科はなかったのですよね.
須磨 なかったのです.非常につらい思いをしましたけれども,しょうがない.一から勉強しましょうと.自分は完全に出遅れたなという思いがずいぶんありましたが,それは結局,胃大網動脈という手術が生まれるためには通るべき道だったのですね.
―――冠動脈バイパスの血管として大伏在静脈でもなく,内胸動脈でもなく,胃大網動脈を使ってみようと思われたのは,順天堂にいらしたころですか.
須磨 いえ,大阪で.虎の門病院にまる4年,順天堂大学に4年半ぐらいいました.そこでは,今,東京医科歯科大学の学長をしておられます鈴木章夫先生が,アメリカ帰りのバリバリの教授で,とくに,日本ではバイパスなら鈴木先生というぐらいトップを走っておられたのです.ただ,そこでも結局,使っていたのは大伏在静脈だったのです.その手術の仕方は勉強したけれども,まったく自分が手術をさせてもらえるような立場にはなれない.
これでは困るので,もっと自分自身が,外科医らしいことができるようなことを始めないといけないと思っていたころに,鈴木教接が東京医科歯科大学に移られると.それなら,先生についていくか,順天堂大学に残るか,他へ行くかの3択です.それで,母校の胸部外科の,もともと卒業したらすぐに行く予定だった教授に,「こんなことになりました」とご報告しましたら,「帰って来い.ここのために勉強してきたことをフィードバックしなさい」と言われました.それで,卒業して9年目ぐらいにもどったのです.
戻って,半年か1年ぐらいのころに,アメリカに留学するチャンスがありました.行き先はユタでした.なぜ,そこに行くかというと,そのころ,完全埋め込み型の人工心臓を,バーニー・クラークさんという方に入れて,100.何日か生きたということが,世界的に話題になっていたころで,そこがその場所たったのです.ぜひ,行ってみたいし,普通の心臓手術も覚えたいと思いました.1984でした.
行ってみると,アメリカの胸部外科学会などでは,バイパスをしたあと,1〜2年は,皆,元気だけれど5〜10年経ったときに,つないだバイパスがどれぐらいきれいに開存しているかのリサーチが行われ,結果がどんどん発表されていました.それが非常にストライキングで,大伏在静脈は残念ながら10年たつと半分ぐらいは詰まってしまい,通っているのも,見るも無残にガタガタになっている.静脈はやはり動脈系,高圧系におくと,内皮細胞がはがれて傷んでいくものだとわかった.
一方で内胸動脈は,その昔,Vineberg手術というのがありまして,枝を全部切って,心筋の中にかしかしと埋め込んでしまう.ホースに穴を開けて,スポンジなどに引き込むような感覚で,そういうことをやっていた時代があるのです.
―――それは有用な手術なのですか.viabilityはどうでしたか.

冠動脈バイパス手術中の写真(左が須磨先生)

アメリカ留学で最先端の動向を知る
須磨 最初は誰も信じなかったのですが,カナダのVinebergという先生がやり始めてその名前かついたのですが,それをいったいどうなっているか見てみようとやったのが,クリーブランド・クリニックのSones先生です.この先生は,冠動脈造影を発明した父といわれている人で,その先生が,冠動脈造影をやり始めたころにVineberg手術を受けた患者さんがたまたま来たんですね.映してみると,詰まっているところに埋め込んだ内胸動脈から血液が梗塞部内血管とつながって流れているというのを造影で確認したのです.
―――VEGF(vascular endothelial growth factor)が,さかんに分泌されたのでしょうか?
須磨 でしょうね.で,これは効くぞとなって,クリーブランド・クリニックがVineberg手術をいち早く,積極的にやり始めたのです.
そして,バイパス手術という技術が確立すると,埋め込むのではなくて,直接,血管同士をつないだらということで,Vinebergをやっていた人たちは,内胸動脈もバイパスとして使うことがスッとできたわけです.
そういう人たちのつないだ内胸動脈を10年ぐらいたって映してみると,ほんとうにきれいに通っていて,詰まっているのはあまりない.静脈とまったく違う結果が出て,やはり,いちばん大事な枝には内胸動脈を使わないといけないというのが,そのころの学会の,皆のコンセンサスだった.
やはり,1本だけでは問題だから,たくさんバイパスしなくてはいけないときに,内胸動脈だけではまかないきれないので,他に,適当な動脈がないか,探さないといけないというのもテーマだった.
その真っただ中に,僕はアメリカに留学したものだから,「そうか」と思って,日本に帰ってきました.そして,1985年から,大阪医科大学のバイパス手術のチームを率いてやり始めたのです.そのときにテーマに掲げたのが,とにかく内胸動脈は全例使う.そして一方で,内胸動脈に匹敵する別の動脈を捜すということを始めました.
そのときにふと思いついたのが,横隔膜の上には内胸動脈以外に,どう考えてもそういうものはないから,お腹の中にしかない.虎の門病院でずいぶん胃の手術を経験していたので,胃の血管でどんなものがあるかはわかっています.そこから,腹腔動脈造影を見せてもらって,「こんなのがある,こんなのがある」「太さはどうだ」と測って思いついたのです.
―――放射線科から100枚もの腹腔動脈造影のフィルムを借り出されて詳細に検討されたのですね.
須磨 はい.糸で長さを測って,太いのがだいたい何センチメートルあるか,バリエーションとしてはどういうものがあるかと徹底的に調べて,臨床を始めたのです.
―――さらに胃切除の病理標本から胃大網動脈を取り出されて詳細に検討されたのですね.何本ぐらい調べられたのですか.
須磨 30本ぐらいですか.
―――すごいですね.
須磨 あのころは燃えていましたからね(笑).あちこち走り回ってお願いしました.ありがたいことに,各教授が協力してくれたのです.
胃大網動脈クラフトを使い手術に成功
―――実際に胃大網動脈を使って手術されたのは,先生が卒業されてから何年目.
須磨 36歳のときですから,12年目.
―――胸部外科のトレーニングを始められて8年ぐらいですか.
須磨 はい.そうですね.5年目からですから.
―――手術は絶対の自信をもっておやりになったわけですよね.当然うまくいったのだと思いますが,新しいことを行うと,欧米は別にしても,日本の学会では,「ほんとかいな?」という反響が多いと思うのですが.
須磨 すごかったですよ.もちろん,第1例目を発表したのは地方会ですよね.小部屋だけれど,けっこういろいろな教授たちも来てくださっていました.
こんなふうにつないで,こうなりました.あとの造影でも通っています.ゆえに,この胃大網動脈はバイパス手術に有用なグラフトである,と結論を言い,「おしまい」といって電気がパッとついて,皆の顔を見まわしたら,全員「は?」(笑).座長も「は?」.だいぶたってから「質問は?」という感じで,シーンでした.「こいつは何をやったんだ?」という感じですよね.
―――たとえは,胃大網動脈を取ると,そのあと,虚血になって潰瘍ができないかというような質問が出るのではないですか.
須磨 向こう3年間ぐらいは,「そこまで考えますか」というぐらいの質問が山のようにきました.もちろん,「胃に間題はないのか」「胃潰瘍が起こるのではないか」「消化機能はどうなるのか」.もっといくと,「うまくいって,何年かたって胃癌になったときに,それが邪魔で手術ができないのではないか」とか,ほんとうに技術的なことから,フィジオロジカルなことから・・・.
質問に答えて論文を書いた
須磨 それを全部テーマにして僕は論文を書いたのです.たとえば,胃の血流が胃大網動脈を外した後どうなるか.胃の先に内視鏡,カメラの先にドっプラーがついているのを入れておいて,手術室で動脈を外す前の普通の状態で胃壁の血流を測って,その後で血管を切り取って測ってみると,何も変わらないのです.
そんなことは,虎の門病院のレジデントのころから胃の血管を外していったあと,胃壁を切ると血がピュッと出るのは見ていますから,どこからでも血は来るのだとわかっているから,考えてみたこともなかったけれど,心臓しかやっていない人は,そういうことを考えるものだなと思ったので,「なるほど」と.これも論文にしましょうと.そういうものがどんどん増えていったおかげで,1つのサイエンスになったのです.
―――日本ではそうであっても,外国では“ウケ”が良いのではないですか.新しいものに対しては,ウエルカムというか,どういうものか開いてみようと.日本の場合には批判から入ることが多いですが,外国,アメリカでは興味から入ってくれるのではないかと思うのです.
須磨 最初,日本の学会で2〜3回,発表して,ネガティブというほどではないけれども,「そんなことしてどうなるの?」「あとで大変なことになるのではないか」というようなことばかりでしたね.「これじゃダメだな」と思って,まだ7例しかやっていない段階で,アメリカの心臓病学会(AHA)といういちばん大きな学会に出したのです.ポスターだったけれども,一応採用になったのです.
ポスターセッションは,何時から何時までは発表者は前に立って,来た人には全部,質問に答えなさいということなので,立っていたら,来るわ来るわ,人がいっぱい来るのです.テレビ局まで来まして,向こうの新聞にも載りました.
そして.クリーブランド・クリニックの有名な心臓外科医も、「僕もちょっとやってみたけれども,これはなかなか使える」とポジティブなコメントをくれたので,勢いが出ました.
それで日本に帰ってきたら,NHKから電話がかかってきて「先生,何をなさったのですか」と言うので,「アメリカで初発表ではなくて,今まで日本でもやっていましたよ」「わかりました.次に発表するときは絶対に言ってください」と言われて,日本の心臓血管外科学会で,シンポジストをつとめることになったときには,NHKはカメラを構えていた(笑).
そうなると,見る目が180度変わって,「すごいね」「自分たちもやろう」「教えて」とワーッと来ました.
1対1の関係で社会人として幸せに生きていく
―――先生は母校の大阪医科大学で仕事をされて,その後,また東京へお戻りになって三井記念病院で勤務されていますね.その後,ローマカトリック大学へ行かれていますが,先生は,職場を決めるときには何をいちばん優先なさいますか.
須磨 そのときの自分がいちばん必要としていることをできる場所です.今もそうですが,自分自身が医師になり,心臓外科医になってきたのは,完全に原点は1つで,1本のラインでつながっているのです,自分の中の軸といいますか.
それは何かといいますと,出会った人を喜ばしてあげたい.須磨先生に会って,須磨先生に治療を頼んでよかったと思ってもらいたい.それだけなのです.そういう関係であることが,中学2年生のときに思い描いた,1対1の関係で社会人として幸せに生きていくということなのです.
内科医になっていれば,また違っていたと思いますが,外科医を選んだ以上,まずは,手術が上手でないと駄目です.まずは基礎的な勉強をして,いいお師匠さんについて,やり方を覚える.これが虎の門病院と順天堂大学でできた.
次は,自分でできるようにならないと駄目で,そのころの日本の心臓外科医などは,40歳過ぎて初めて心臓に触りましたというのがざらだったのです.教授になってから第1例目という人もいたくらいです.アメリカなどへ行けば,30歳半ばで100例,200例やったという人がいっぱいいた.この違いを何とか克服しない限り太刀打ちできない.どうしても30代で自分が責任をもって手術できるような場所に身を置きたかったのです.それで,順天堂大学から大阪医科大学に戻りました.
虎の門病院から順天堂大学に行ったのは,一般外科はわかった,心臓外科を覚えたいというので,当時ナンバー1だった順天堂大学に行って,もうだいたいわかったなと思ったけれど,いつまでたっても手術をさせてくれないのです.教授の下に助教授,講師,助手が10人ぐらいいて,その下でしょう.その人たちが全部,手術やって,「では,君」というころには,こちらはもう,老いぼれています(笑).
これは,教授にも話したけれども,「僕もやりたいから,考えます」と話して,大阪医科大学に戻った.戻って1年ほどたって「やってごらん」と,チームをいただいてやり出した.大阪医科大学で胃大網動脈を発表して,年々バイパス手術の件数が増えていって,4年目には113例だったか,その当時の国立循環器病センターの数を抜いたのです.その当時,バイパス手術を1年間100例以上やるのは,日本でも,そうはいなかったと思います.
―――今でも,そんなに多くないですよね,年間100例以上,コンスタントに手術している施設は.
須磨 そうですね.その当時にしては画期的なことで,すごくうれしかったのですが,そうなると今度は,もっとパワフルなところで・・・.やはり,大学の一助手ですから,上にいっぱい人がいて,結局,檻みたいなものがあって,その中で勝手に走っていろというようなものでしょう.「困ったな,これしかないかな」と思っていたときに,三井記念病院から「来ませんか」と声がかかりました.
やはり,僕にとって東京は,すごく生活の場としても魅力的だったし,医学をやっていく中ででも非常にパワフルなところです.それで,「行きます」.
イメージトレーニングやジャッジメントをどのようにして体得したのか
―――手術は,ただ単に手を動かして行うもの(hand work)ではない.surgeryには,イメージトレーニングやジャッジメントが大切なのだとおっしゃっている記事を拝見しました.先生は,手術の全体の図面を思い描く,構図をつくるイマジネーションがとてもすばらしくて,手術のスキルとスピードがすごいとおっしゃる先生が何人もいらっしゃいます.手術のイマジネーション,スキル,スピード,そして的確なジャッジメントを,先生はどういうところで身につけていらっしゃったのですか,天性のものですか.
須磨 もちろん,向いている才能はあったと思いますが,それは僕だけにしかないものではなくて,持っている人はいっぱいいると思います.私の場合はそれを引き出して,磨かないとやっていけないような環境に,知らず知らず,自分が置かれてしまったのです.
胃大網動脈を発表しましたら,あちこちから,海外からも,来て見せてくれといわれました.そうなると、アシスタントを連れて,看護師も連れて,道具を山ほど抱えて行くことなどできないわけです.自分1人で行っても,相手がどこの国のどんな人たちでも,「須磨がやる手術は,どこで見ても変わらないね」といわれるような手術法を確立しない限り,「相手がヘボだったから」「言葉が通じないから」初めてだったから」「患者がこんな状態だったから」,「うまくいきませんでした」「みっともない手術でした」では,通用しないわけです.
これが30代のときからワーッと押し寄せてきて,90年代――40代のころ――には20か国ぐらい行きました.ローマ,ブラッセル,フランス,エジプトのカイロなどで公開手術をやりました.多いときは,東京で1,500人でしたが,聴衆が集まるところで大画面の前でやるわけでしょう.そうなると,見ている人もよく見えて,やっている自分も気持ちよくできて,手術そのものが「見に来てよかったな」といういい手術で,というのをいつも見せようと思っていたら,人に頼っていられないわけです.しかも,まどろっこしい手術では見ている人は満足しない.自分の中で,きれいな,カッコいい手術のイメージがどんどんできていくわけです.
そういう環境に置かれると,その人のもっている能力はどんどん引き出されて伸びていって,周りがそれで「あいつはすごい」と言ってくれて,次に進む.
同じ才能を持っていても,そういう目にあっていない人たちがいますね.自分のホームグラウンドの中で,いつもやっている人たちとだけやって,別に,その手術を誰も見に来ないという人は,そこで止まってしまうのです.手術がうまくいって,患者さんが元気で退院すれば,「よかったですね.先生,いつも手術上手ですね」と言ってもらえる.
だから,評価のレベルが違うんですね.そういう評価の厳しいところに身を置いてしまったから,僕がもっともっとというのを具体的に追い求めて,育ったのだと思うのです.
―――そういうプロセスを踏まれて,先生は,手術の組み立てがお上手で,技術もスピードも人並みはずれたものになられた.
須磨 それはわからないけれども,やはり,それを見に来た人が,「自分のところでも公開手術をやってみよう.そのときには絶対に須磨を呼ぼう」と思ってもらうためには納得させないといけませんから.「患者さんは元気で退院しました」といっても,そんなことは関係ないです.見て,「すごい.あれは自分も勉強したい.うちの国のみんなに見せたい.あいつを呼べ」というところまで,感動させないと駄目です.
―――先生は大変きれいな手をされていますね,長い指,右の親指だけ,ちょっと,ささくれがありますけれど.ハンドクリームをつけてケアをされたりするのですか.
須磨 あまりそういうことはしないです.これは,本のページで切ってしまったのです.買いたての新しい本をパッとめくったときに(笑).だけど,手には,できるだけケガをしないようにはしています.
外科は治療環境を整えるものだ
―――ローマからお戻りになって,MIDCAB(minimally invasive direct coronary artery bypass)や, off pump CABG(OPCAB)をおやりになったり,また,通常心不全は内科の治療でというのを,常識を覆した縫縮手術,Batistaをなさったりしています.
心臓の治療は,いま,内科的治療も外科的治療も両方同じように大切だと認識されているわけです.私は学生のときに,結核の治療のように外科の治療が,内科的な治療にとって代わることが医学の進歩だと教わりました.しかし,たとえば糖尿病ですと膵臓や膵島の移植ができるようになったということもあり.最終的には外科的な治療でcureを望むことが医学の進歩であるという考えもあります.
須磨 外科の出る幕はなくならないと思います.ただ,内科のかわりに外科があるのではなくて,内科治療が非常にやりやすくて,しかも,効果が出やすい環境をつくってあげるのが外科手術だと思うのです.
ですから.外科か内科かという議論はすごくおかしくて,内科はその人の生活をきちんと正しく,あるべきものに血圧やデータを正常化させ,そのために必要な薬を出して,その薬の副作用を最小限に抑える.内科ですから全身管理で一生ものなのです.
外科は,それがどうしてもうまくいかないとか,いっているけれど,手術でここの部分さえ治してあげたら,もっと楽に治療ができるというふうに,環境を整えるものではないかなと思うのです.
バイパス手術をやったからといって動脈硬化が治るわけではない.その手術の後のリスクファクターの管理は絶対に必要です.そのときに,1本バイパスがピシッと通っていれば,楽だし安全です.そのもっと延長したものが,心不全の治療です.
心臓外科の歴史を見てみると,大きく分けて3つあります.「先天性心疾患」「弁膜症」「虚血性心疾患」ですが,どれも左心室の機能が,ある一定以上に低くなってしまうと,手術の禁忌になる.でもそこをよくするのが外科医の究極の仕事であって,元気な心臓にバイパスを通しました,元気な心臓の弁だけ換えました,うまくいったから手術はすごいぞといっても,それはl00点満点.ファイナルアンサーではないのではないかというのは,ずっと心の中にあったわけです.
それに,移植を受けた人はいいけれども,受けられない人が99%いる.これは,世界中どこでもそうで,そういう人に対して,「あきらめなさい」ではなくて,「こういう方法もあるよ」ということを考えないといけない.そういうことを考える外科医が出てき始めたのか90年代後半です.そこで,Batista手術,Dor手術などが出てきた.
私は、90年代中ごろ,ローマへ教授で2年間行っていたときに,それに直接出会って,「すごいな」ということで帰ってきたわけです.ただ,手術そのものはすごくプリミティブなもので,今は改良を加えてよくなりましたけれども.そういうことで,悪い,ほんとうに動きが落ちてしまった左心室を少しでもよくして,そこへ,いい内科の治療が加わると,死ぬ人が生きながらえる.そういうところへ,いま来ているのだと思います.
術中エコーの試み
―――術中にエコーを行い心臓のviabilityを見極めてBatista手術を行うというアイデアはどこから、どういうときに考えついたのですか.
須磨 Batista手術を20〜30人ぐらいやったころです.心臓を外側から見ると,何となく動かないし,どの部分の筋肉も悪いように見える.しかし開けて心内膜側を見ると,いい部分と悪い部分の差が歴然としています.やはり,心筋は心内膜側から死んでいきますから,悪いところといいところの違いがよけいによくわかるのです.
あるとき.特発性拡張型心筋症なのに,ある部分は心筋梗塞のように真っ白に死んでいて,ある部分はピンク色で生きている.明らかにこちらは傷みがひどくて,こちらのほうがましだ.それだけ違いがあるのに,Batista手術では,「切るのはここ」と決め打ちしていたのです.そうすると,切るところがいいところで残すところが悪いところだったら,うまくいくわけがない.でも,それは外から見たってわからない.何とか知る方法がないかなと考えて,超音波を当ててみようと.
もちろん.超音波は手術前からいっぱい当てているわけだけれども,心臓がパンパンに張った状態では,動きたくても動けないところもある.それでは緩めてやろうというので,人工心肺を回して脱血して,心室内の圧を下げて,張りをとってやると,まだ生きのいいところは動く,壁もグッと厚くなる.ほんとうに真っ白になって死んでいるところは何も変わらない.
それで,心臓にメスを入れる前に,どうも,こちらがよくてこちらが悪いようだなとわかります.そうしたら,Batistaにするのか,違う手術にするのか,そういう選択ができるではないかというので,やり始めたのです.明らかに手術成績がよくなりました.
これからの自分に課していること
―――先生は学生のころから心臓外科医になろうと目指されて,心臓外科医として世界的なレベルでエスタブリッシュされました.これからはどういうことをなさりたいと思われていますか.
須磨 外科医の賞味期限,旬というのは確実にあって、やはり,55歳を過ぎると落ちていくと思います.いつまでも手術をやり続けるぞといっても,周りがやめてくださいというときが必ず来るわけですから,その手前で,ヘッドコーチみたいに,自分が先に走るのではなくで,チームを勝たせるための仕事をできるようになりたいし,それを今,やっているわけです.
若い,才能のある人に,どんどん手術をやってもらって,ノウハウは全部教えています.おかけで,教えた若い人が大学教授になったりもしているし,彼らがやった手術がうまくいったりしているのを見ると,うれしいですね.
―――先生はご自分に対してもとてもストイックであられると思うのですが,50歳過ぎてから,体重は増えていない,むしろ少しおやせになりましたね.
須磨 ええ.2kgほど絞りました.
―――どのようにして体重コントロールされたのですか.
須磨 週に2日は必ずジムに行って,いろいろなエクササイズをしています.食事も,ダイエットなどはしていませんが,一応,注意していますし,家内も一生懸命に気を使ってくれるので,体調は40代後半よりも今のほうがいいですね.体脂肪率なども今のほうが低いです.
若い医療スタッフへのメッセージ:自分の原点をしっかり持て
―――先生は医療の世界で30年ご活躍になっていますが,外科医だけではなくて,苦い医師,医療スタッフに対してメッセージがあれば,教えていただきたいのですが.
須磨 自分は何ゆえに,医師,ナース,あるいはそれ以外の医療従事者の道を選んだのか,その原点を自分の中でしっかり,いつも明碓にしておいてほしいですね.人から言われるのではなくて,自問自答してほしい.それは歳を重ねれば変わっていくかも知れないし,変わってもいいのだけれど,そういうことについて自分ではっきりとつかんでおいてほしい.
つまるところは人助けをしたいというのが原点になると思うのです.そうなったときに,人を助けるとはどういうことか,また自問自答してほしい.それは,やはり,自分で決めて,自分でやって,自分でその責任をとるという,このどれからも抜け出られないのです.
「言われたことをやって,駄目だったけれど,僕のせいではないよ」というのでは,医師ではないのです.そのへんの凛々しさというか,潔さは,若い人はとくに肝に銘じてほしい.絶対に人のせいにしたら駄目で,人のせいにできるのであれば,逆に自分がその患者を治してあげたとはいえない,放棄してしまうわけですから.そういう責任感はいつももっていてほしい.
そういう中で今の自分に何ができるか.5年,10年後の自分が何をしたいかという夢というか,目標をもって,ちょっとずつ背伸びしながら歩んでいく.それがいちばんやってほしいことです.
―――本日はどうもありがとうございました.

(このインタビューは2007年1月12日,心臓血管研究所で行われました)


糖尿病診療マスター Vol.5 No.2 2007 より