アメリカ留学で最先端の動向を知る
須磨 最初は誰も信じなかったのですが,カナダのVinebergという先生がやり始めてその名前かついたのですが,それをいったいどうなっているか見てみようとやったのが,クリーブランド・クリニックのSones先生です.この先生は,冠動脈造影を発明した父といわれている人で,その先生が,冠動脈造影をやり始めたころにVineberg手術を受けた患者さんがたまたま来たんですね.映してみると,詰まっているところに埋め込んだ内胸動脈から血液が梗塞部内血管とつながって流れているというのを造影で確認したのです.
―――VEGF(vascular endothelial growth factor)が,さかんに分泌されたのでしょうか?
須磨 でしょうね.で,これは効くぞとなって,クリーブランド・クリニックがVineberg手術をいち早く,積極的にやり始めたのです.
そして,バイパス手術という技術が確立すると,埋め込むのではなくて,直接,血管同士をつないだらということで,Vinebergをやっていた人たちは,内胸動脈もバイパスとして使うことがスッとできたわけです.
そういう人たちのつないだ内胸動脈を10年ぐらいたって映してみると,ほんとうにきれいに通っていて,詰まっているのはあまりない.静脈とまったく違う結果が出て,やはり,いちばん大事な枝には内胸動脈を使わないといけないというのが,そのころの学会の,皆のコンセンサスだった.
やはり,1本だけでは問題だから,たくさんバイパスしなくてはいけないときに,内胸動脈だけではまかないきれないので,他に,適当な動脈がないか,探さないといけないというのもテーマだった.
その真っただ中に,僕はアメリカに留学したものだから,「そうか」と思って,日本に帰ってきました.そして,1985年から,大阪医科大学のバイパス手術のチームを率いてやり始めたのです.そのときにテーマに掲げたのが,とにかく内胸動脈は全例使う.そして一方で,内胸動脈に匹敵する別の動脈を捜すということを始めました.
そのときにふと思いついたのが,横隔膜の上には内胸動脈以外に,どう考えてもそういうものはないから,お腹の中にしかない.虎の門病院でずいぶん胃の手術を経験していたので,胃の血管でどんなものがあるかはわかっています.そこから,腹腔動脈造影を見せてもらって,「こんなのがある,こんなのがある」「太さはどうだ」と測って思いついたのです.
―――放射線科から100枚もの腹腔動脈造影のフィルムを借り出されて詳細に検討されたのですね.
須磨 はい.糸で長さを測って,太いのがだいたい何センチメートルあるか,バリエーションとしてはどういうものがあるかと徹底的に調べて,臨床を始めたのです.
―――さらに胃切除の病理標本から胃大網動脈を取り出されて詳細に検討されたのですね.何本ぐらい調べられたのですか.
須磨 30本ぐらいですか.
―――すごいですね.
須磨 あのころは燃えていましたからね(笑).あちこち走り回ってお願いしました.ありがたいことに,各教授が協力してくれたのです.
胃大網動脈クラフトを使い手術に成功
―――実際に胃大網動脈を使って手術されたのは,先生が卒業されてから何年目.
須磨 36歳のときですから,12年目.
―――胸部外科のトレーニングを始められて8年ぐらいですか.
須磨 はい.そうですね.5年目からですから.
―――手術は絶対の自信をもっておやりになったわけですよね.当然うまくいったのだと思いますが,新しいことを行うと,欧米は別にしても,日本の学会では,「ほんとかいな?」という反響が多いと思うのですが.
須磨 すごかったですよ.もちろん,第1例目を発表したのは地方会ですよね.小部屋だけれど,けっこういろいろな教授たちも来てくださっていました.
こんなふうにつないで,こうなりました.あとの造影でも通っています.ゆえに,この胃大網動脈はバイパス手術に有用なグラフトである,と結論を言い,「おしまい」といって電気がパッとついて,皆の顔を見まわしたら,全員「は?」(笑).座長も「は?」.だいぶたってから「質問は?」という感じで,シーンでした.「こいつは何をやったんだ?」という感じですよね.
―――たとえは,胃大網動脈を取ると,そのあと,虚血になって潰瘍ができないかというような質問が出るのではないですか.
須磨 向こう3年間ぐらいは,「そこまで考えますか」というぐらいの質問が山のようにきました.もちろん,「胃に間題はないのか」「胃潰瘍が起こるのではないか」「消化機能はどうなるのか」.もっといくと,「うまくいって,何年かたって胃癌になったときに,それが邪魔で手術ができないのではないか」とか,ほんとうに技術的なことから,フィジオロジカルなことから・・・.
質問に答えて論文を書いた
須磨 それを全部テーマにして僕は論文を書いたのです.たとえば,胃の血流が胃大網動脈を外した後どうなるか.胃の先に内視鏡,カメラの先にドっプラーがついているのを入れておいて,手術室で動脈を外す前の普通の状態で胃壁の血流を測って,その後で血管を切り取って測ってみると,何も変わらないのです.
そんなことは,虎の門病院のレジデントのころから胃の血管を外していったあと,胃壁を切ると血がピュッと出るのは見ていますから,どこからでも血は来るのだとわかっているから,考えてみたこともなかったけれど,心臓しかやっていない人は,そういうことを考えるものだなと思ったので,「なるほど」と.これも論文にしましょうと.そういうものがどんどん増えていったおかげで,1つのサイエンスになったのです.
―――日本ではそうであっても,外国では“ウケ”が良いのではないですか.新しいものに対しては,ウエルカムというか,どういうものか開いてみようと.日本の場合には批判から入ることが多いですが,外国,アメリカでは興味から入ってくれるのではないかと思うのです.
須磨 最初,日本の学会で2〜3回,発表して,ネガティブというほどではないけれども,「そんなことしてどうなるの?」「あとで大変なことになるのではないか」というようなことばかりでしたね.「これじゃダメだな」と思って,まだ7例しかやっていない段階で,アメリカの心臓病学会(AHA)といういちばん大きな学会に出したのです.ポスターだったけれども,一応採用になったのです.
ポスターセッションは,何時から何時までは発表者は前に立って,来た人には全部,質問に答えなさいということなので,立っていたら,来るわ来るわ,人がいっぱい来るのです.テレビ局まで来まして,向こうの新聞にも載りました.
そして.クリーブランド・クリニックの有名な心臓外科医も、「僕もちょっとやってみたけれども,これはなかなか使える」とポジティブなコメントをくれたので,勢いが出ました.
それで日本に帰ってきたら,NHKから電話がかかってきて「先生,何をなさったのですか」と言うので,「アメリカで初発表ではなくて,今まで日本でもやっていましたよ」「わかりました.次に発表するときは絶対に言ってください」と言われて,日本の心臓血管外科学会で,シンポジストをつとめることになったときには,NHKはカメラを構えていた(笑).
そうなると,見る目が180度変わって,「すごいね」「自分たちもやろう」「教えて」とワーッと来ました.
1対1の関係で社会人として幸せに生きていく
―――先生は母校の大阪医科大学で仕事をされて,その後,また東京へお戻りになって三井記念病院で勤務されていますね.その後,ローマカトリック大学へ行かれていますが,先生は,職場を決めるときには何をいちばん優先なさいますか.
須磨 そのときの自分がいちばん必要としていることをできる場所です.今もそうですが,自分自身が医師になり,心臓外科医になってきたのは,完全に原点は1つで,1本のラインでつながっているのです,自分の中の軸といいますか.
それは何かといいますと,出会った人を喜ばしてあげたい.須磨先生に会って,須磨先生に治療を頼んでよかったと思ってもらいたい.それだけなのです.そういう関係であることが,中学2年生のときに思い描いた,1対1の関係で社会人として幸せに生きていくということなのです.
内科医になっていれば,また違っていたと思いますが,外科医を選んだ以上,まずは,手術が上手でないと駄目です.まずは基礎的な勉強をして,いいお師匠さんについて,やり方を覚える.これが虎の門病院と順天堂大学でできた.
次は,自分でできるようにならないと駄目で,そのころの日本の心臓外科医などは,40歳過ぎて初めて心臓に触りましたというのがざらだったのです.教授になってから第1例目という人もいたくらいです.アメリカなどへ行けば,30歳半ばで100例,200例やったという人がいっぱいいた.この違いを何とか克服しない限り太刀打ちできない.どうしても30代で自分が責任をもって手術できるような場所に身を置きたかったのです.それで,順天堂大学から大阪医科大学に戻りました.
虎の門病院から順天堂大学に行ったのは,一般外科はわかった,心臓外科を覚えたいというので,当時ナンバー1だった順天堂大学に行って,もうだいたいわかったなと思ったけれど,いつまでたっても手術をさせてくれないのです.教授の下に助教授,講師,助手が10人ぐらいいて,その下でしょう.その人たちが全部,手術やって,「では,君」というころには,こちらはもう,老いぼれています(笑).
これは,教授にも話したけれども,「僕もやりたいから,考えます」と話して,大阪医科大学に戻った.戻って1年ほどたって「やってごらん」と,チームをいただいてやり出した.大阪医科大学で胃大網動脈を発表して,年々バイパス手術の件数が増えていって,4年目には113例だったか,その当時の国立循環器病センターの数を抜いたのです.その当時,バイパス手術を1年間100例以上やるのは,日本でも,そうはいなかったと思います.
―――今でも,そんなに多くないですよね,年間100例以上,コンスタントに手術している施設は.
須磨 そうですね.その当時にしては画期的なことで,すごくうれしかったのですが,そうなると今度は,もっとパワフルなところで・・・.やはり,大学の一助手ですから,上にいっぱい人がいて,結局,檻みたいなものがあって,その中で勝手に走っていろというようなものでしょう.「困ったな,これしかないかな」と思っていたときに,三井記念病院から「来ませんか」と声がかかりました.
やはり,僕にとって東京は,すごく生活の場としても魅力的だったし,医学をやっていく中ででも非常にパワフルなところです.それで,「行きます」.
イメージトレーニングやジャッジメントをどのようにして体得したのか
―――手術は,ただ単に手を動かして行うもの(hand work)ではない.surgeryには,イメージトレーニングやジャッジメントが大切なのだとおっしゃっている記事を拝見しました.先生は,手術の全体の図面を思い描く,構図をつくるイマジネーションがとてもすばらしくて,手術のスキルとスピードがすごいとおっしゃる先生が何人もいらっしゃいます.手術のイマジネーション,スキル,スピード,そして的確なジャッジメントを,先生はどういうところで身につけていらっしゃったのですか,天性のものですか.
須磨 もちろん,向いている才能はあったと思いますが,それは僕だけにしかないものではなくて,持っている人はいっぱいいると思います.私の場合はそれを引き出して,磨かないとやっていけないような環境に,知らず知らず,自分が置かれてしまったのです.
胃大網動脈を発表しましたら,あちこちから,海外からも,来て見せてくれといわれました.そうなると、アシスタントを連れて,看護師も連れて,道具を山ほど抱えて行くことなどできないわけです.自分1人で行っても,相手がどこの国のどんな人たちでも,「須磨がやる手術は,どこで見ても変わらないね」といわれるような手術法を確立しない限り,「相手がヘボだったから」「言葉が通じないから」初めてだったから」「患者がこんな状態だったから」,「うまくいきませんでした」「みっともない手術でした」では,通用しないわけです.
これが30代のときからワーッと押し寄せてきて,90年代――40代のころ――には20か国ぐらい行きました.ローマ,ブラッセル,フランス,エジプトのカイロなどで公開手術をやりました.多いときは,東京で1,500人でしたが,聴衆が集まるところで大画面の前でやるわけでしょう.そうなると,見ている人もよく見えて,やっている自分も気持ちよくできて,手術そのものが「見に来てよかったな」といういい手術で,というのをいつも見せようと思っていたら,人に頼っていられないわけです.しかも,まどろっこしい手術では見ている人は満足しない.自分の中で,きれいな,カッコいい手術のイメージがどんどんできていくわけです.
そういう環境に置かれると,その人のもっている能力はどんどん引き出されて伸びていって,周りがそれで「あいつはすごい」と言ってくれて,次に進む.
同じ才能を持っていても,そういう目にあっていない人たちがいますね.自分のホームグラウンドの中で,いつもやっている人たちとだけやって,別に,その手術を誰も見に来ないという人は,そこで止まってしまうのです.手術がうまくいって,患者さんが元気で退院すれば,「よかったですね.先生,いつも手術上手ですね」と言ってもらえる.
だから,評価のレベルが違うんですね.そういう評価の厳しいところに身を置いてしまったから,僕がもっともっとというのを具体的に追い求めて,育ったのだと思うのです.
―――そういうプロセスを踏まれて,先生は,手術の組み立てがお上手で,技術もスピードも人並みはずれたものになられた.
須磨 それはわからないけれども,やはり,それを見に来た人が,「自分のところでも公開手術をやってみよう.そのときには絶対に須磨を呼ぼう」と思ってもらうためには納得させないといけませんから.「患者さんは元気で退院しました」といっても,そんなことは関係ないです.見て,「すごい.あれは自分も勉強したい.うちの国のみんなに見せたい.あいつを呼べ」というところまで,感動させないと駄目です.
―――先生は大変きれいな手をされていますね,長い指,右の親指だけ,ちょっと,ささくれがありますけれど.ハンドクリームをつけてケアをされたりするのですか.
須磨 あまりそういうことはしないです.これは,本のページで切ってしまったのです.買いたての新しい本をパッとめくったときに(笑).だけど,手には,できるだけケガをしないようにはしています.
外科は治療環境を整えるものだ
―――ローマからお戻りになって,MIDCAB(minimally invasive direct coronary artery bypass)や, off pump CABG(OPCAB)をおやりになったり,また,通常心不全は内科の治療でというのを,常識を覆した縫縮手術,Batistaをなさったりしています.
心臓の治療は,いま,内科的治療も外科的治療も両方同じように大切だと認識されているわけです.私は学生のときに,結核の治療のように外科の治療が,内科的な治療にとって代わることが医学の進歩だと教わりました.しかし,たとえば糖尿病ですと膵臓や膵島の移植ができるようになったということもあり.最終的には外科的な治療でcureを望むことが医学の進歩であるという考えもあります.
須磨 外科の出る幕はなくならないと思います.ただ,内科のかわりに外科があるのではなくて,内科治療が非常にやりやすくて,しかも,効果が出やすい環境をつくってあげるのが外科手術だと思うのです.
ですから.外科か内科かという議論はすごくおかしくて,内科はその人の生活をきちんと正しく,あるべきものに血圧やデータを正常化させ,そのために必要な薬を出して,その薬の副作用を最小限に抑える.内科ですから全身管理で一生ものなのです.
外科は,それがどうしてもうまくいかないとか,いっているけれど,手術でここの部分さえ治してあげたら,もっと楽に治療ができるというふうに,環境を整えるものではないかなと思うのです.
バイパス手術をやったからといって動脈硬化が治るわけではない.その手術の後のリスクファクターの管理は絶対に必要です.そのときに,1本バイパスがピシッと通っていれば,楽だし安全です.そのもっと延長したものが,心不全の治療です.
心臓外科の歴史を見てみると,大きく分けて3つあります.「先天性心疾患」「弁膜症」「虚血性心疾患」ですが,どれも左心室の機能が,ある一定以上に低くなってしまうと,手術の禁忌になる.でもそこをよくするのが外科医の究極の仕事であって,元気な心臓にバイパスを通しました,元気な心臓の弁だけ換えました,うまくいったから手術はすごいぞといっても,それはl00点満点.ファイナルアンサーではないのではないかというのは,ずっと心の中にあったわけです.
それに,移植を受けた人はいいけれども,受けられない人が99%いる.これは,世界中どこでもそうで,そういう人に対して,「あきらめなさい」ではなくて,「こういう方法もあるよ」ということを考えないといけない.そういうことを考える外科医が出てき始めたのか90年代後半です.そこで,Batista手術,Dor手術などが出てきた.
私は、90年代中ごろ,ローマへ教授で2年間行っていたときに,それに直接出会って,「すごいな」ということで帰ってきたわけです.ただ,手術そのものはすごくプリミティブなもので,今は改良を加えてよくなりましたけれども.そういうことで,悪い,ほんとうに動きが落ちてしまった左心室を少しでもよくして,そこへ,いい内科の治療が加わると,死ぬ人が生きながらえる.そういうところへ,いま来ているのだと思います.
術中エコーの試み
―――術中にエコーを行い心臓のviabilityを見極めてBatista手術を行うというアイデアはどこから、どういうときに考えついたのですか.
須磨 Batista手術を20〜30人ぐらいやったころです.心臓を外側から見ると,何となく動かないし,どの部分の筋肉も悪いように見える.しかし開けて心内膜側を見ると,いい部分と悪い部分の差が歴然としています.やはり,心筋は心内膜側から死んでいきますから,悪いところといいところの違いがよけいによくわかるのです.
あるとき.特発性拡張型心筋症なのに,ある部分は心筋梗塞のように真っ白に死んでいて,ある部分はピンク色で生きている.明らかにこちらは傷みがひどくて,こちらのほうがましだ.それだけ違いがあるのに,Batista手術では,「切るのはここ」と決め打ちしていたのです.そうすると,切るところがいいところで残すところが悪いところだったら,うまくいくわけがない.でも,それは外から見たってわからない.何とか知る方法がないかなと考えて,超音波を当ててみようと.
もちろん.超音波は手術前からいっぱい当てているわけだけれども,心臓がパンパンに張った状態では,動きたくても動けないところもある.それでは緩めてやろうというので,人工心肺を回して脱血して,心室内の圧を下げて,張りをとってやると,まだ生きのいいところは動く,壁もグッと厚くなる.ほんとうに真っ白になって死んでいるところは何も変わらない.
それで,心臓にメスを入れる前に,どうも,こちらがよくてこちらが悪いようだなとわかります.そうしたら,Batistaにするのか,違う手術にするのか,そういう選択ができるではないかというので,やり始めたのです.明らかに手術成績がよくなりました.
これからの自分に課していること
―――先生は学生のころから心臓外科医になろうと目指されて,心臓外科医として世界的なレベルでエスタブリッシュされました.これからはどういうことをなさりたいと思われていますか.
須磨 外科医の賞味期限,旬というのは確実にあって、やはり,55歳を過ぎると落ちていくと思います.いつまでも手術をやり続けるぞといっても,周りがやめてくださいというときが必ず来るわけですから,その手前で,ヘッドコーチみたいに,自分が先に走るのではなくで,チームを勝たせるための仕事をできるようになりたいし,それを今,やっているわけです.
若い,才能のある人に,どんどん手術をやってもらって,ノウハウは全部教えています.おかけで,教えた若い人が大学教授になったりもしているし,彼らがやった手術がうまくいったりしているのを見ると,うれしいですね.
―――先生はご自分に対してもとてもストイックであられると思うのですが,50歳過ぎてから,体重は増えていない,むしろ少しおやせになりましたね.
須磨 ええ.2kgほど絞りました.
―――どのようにして体重コントロールされたのですか.
須磨 週に2日は必ずジムに行って,いろいろなエクササイズをしています.食事も,ダイエットなどはしていませんが,一応,注意していますし,家内も一生懸命に気を使ってくれるので,体調は40代後半よりも今のほうがいいですね.体脂肪率なども今のほうが低いです.
若い医療スタッフへのメッセージ:自分の原点をしっかり持て
―――先生は医療の世界で30年ご活躍になっていますが,外科医だけではなくて,苦い医師,医療スタッフに対してメッセージがあれば,教えていただきたいのですが.
須磨 自分は何ゆえに,医師,ナース,あるいはそれ以外の医療従事者の道を選んだのか,その原点を自分の中でしっかり,いつも明碓にしておいてほしいですね.人から言われるのではなくて,自問自答してほしい.それは歳を重ねれば変わっていくかも知れないし,変わってもいいのだけれど,そういうことについて自分ではっきりとつかんでおいてほしい.
つまるところは人助けをしたいというのが原点になると思うのです.そうなったときに,人を助けるとはどういうことか,また自問自答してほしい.それは,やはり,自分で決めて,自分でやって,自分でその責任をとるという,このどれからも抜け出られないのです.
「言われたことをやって,駄目だったけれど,僕のせいではないよ」というのでは,医師ではないのです.そのへんの凛々しさというか,潔さは,若い人はとくに肝に銘じてほしい.絶対に人のせいにしたら駄目で,人のせいにできるのであれば,逆に自分がその患者を治してあげたとはいえない,放棄してしまうわけですから.そういう責任感はいつももっていてほしい.
そういう中で今の自分に何ができるか.5年,10年後の自分が何をしたいかという夢というか,目標をもって,ちょっとずつ背伸びしながら歩んでいく.それがいちばんやってほしいことです.
―――本日はどうもありがとうございました. (このインタビューは2007年1月12日,心臓血管研究所で行われました) |