 |
 |
|
どんな社会人になるのか、
とことん考えた
私立中学時代 |
 |
「医師をめざしたのは中学2年のときでしたが、当時はまったく目立たない存在でしたね。身内に医師はいませんでしたし、何のプレッシャーもありませんでした」
心臓外科という医学界でも華々しい分野でトップに立つ須磨氏だが、意外に地味な少年時代をすごしていたようだ。
「その頃は日本が一番元気な時代で、人を押しのけて頑張るモーレツ社員というのが望まれる人材でした。でも、僕は人と競争したり、相手を押しのけたりすることができない子どもでしたから、サラリーマンになっても落ちこぼれてしまいそうな気がしました。誰かをやっつけないと立派になれない会社員よりも、もっと小さなユニットで、社会人として認めてもらえて、1対1の関係で人に喜んでもらえるような仕事がしたい、といろいろ考えて医師にたどりつきました」
ところが、須磨氏が通っていたのは幼稚園から大学まである一貫教育の私立校。附属高校から進学できる大学に医学部はなかった。しかも、他大学を受験するのは全体の4分の1程度、医学部進学は浪人しても3年に1人いるかいないかという状況だったという。
「普通、成績がよければ東大か京大、学力が上位何番目までなら医学部という選択になっていくでしょうが、僕の場合は大学の附属高校で受験を考えなくていい環境にいたために、職業人としての人生を考えることができた。今思えば、それがよかったのかもしれません」 |
 |
| |
虎の門病院の外科で研修。
急がば回れの発想が
将来の新技術を生んだ |
 |
須磨氏が大阪医科大学に入学して間もない頃、南アフリカのケープタウンでクリスチャン・バーナード医師が世界初の心臓移植を成功させたことが大きなニュースに なった。
「ちょうど、その頃、ベン・ケーシーという脳外科医を主人公にしたアメリカの医療ドラマが流行っていました。半袖の白衣がカッコよくて、迷わず外科医になることに決めました(笑)」
心臓外科を専門に決めたのは、海外の医学雑誌で心臓バイパス手術の様子を見たことが きっかけだったという。
「心臓って、こんなふうにして治すのか、と素直に感動しました。自分にその才能がある かどうかわからないけれど、できるものなら心臓外科医になれたらいいなと。自然に決まっていったので、迷いがなくて楽でした」
自分の専門分野は決めたものの、須磨氏は自分の研修先を決めるにあたって考えた。
「たとえ心臓外科医になるにしても、心臓の手術しかできない医師にはなりたくない。心臓以外のこともきちんと学んで、経験を積んだ上で先に進みたいと思ったのです」
当時は研修制度が整備されていなかったため、医学部を卒業したあとは、そのまま母校の医局に入局するのが普通だった。しかし、須磨氏は医局を飛び出し、海外と同じレベルでの臨床研修を実施していた虎の門病院の試験を自分で受け、合格する。
「幸か不幸か、虎の門病院には心臓外科だけがなかったので、一般外科で研修を受け、病理や麻酔、胃の手術もたくさん勉強することができました。4年後に心臓外科にチャレンジしたくて順天堂大学の胸部外科に入ったのですが、医師になって5年にもなるのに人工心肺のこともわかっていなくて、入ったばかりの1年生にバカにされました。僕は抵抗しないタチなので気にしませんでしたけど」
しかし、一般外科での4年問の経験が、のちの新技術、すなわち心臓バイパス手術に胃の大網動脈を使う方法を誕生させるベースとなったのである。
「1970年代は心臓バイパス手術には脚の静脈を使うのが一般的でした。でも、その血管が10年後にどうなるのかを検証すると、半分くらいは詰まってしまう。予想していたほど長持ちしないことがわかっていました。そこで、10年たっても詰まらない動脈を使おうという研究が進んでいきました。内胸動脈を使った医師もいましたが、私は虎の門病院で胃の手術をたくさん経験していたので、お腹の中に使える血管があるのではないかと思い、放射線科で腹部の血管造影写真をたくさん借りてきました。そして十分な長さと太さがあり、動脈硬化が起こらない質のよい血管がないかを探しました。それで胃の動脈を 見つけたのです」
それから半年後、胃の大網動脈を使った心臓バイパス手術に成功。須磨氏36歳のときのことだった。
|
 |
| |
ローマを拠点に
世界20カ国で
心臓の公開手術を行う |
 |
順天堂大学からいったん母校、大阪医科大学に戻った須磨氏は、米国ユタ大学心臓血管外科が、史上初の人工心臓完全埋め込みに成功したというニュースを知り、何とかして現地に行きたいと思いを募らせる。
「人工心臓の勉強をするならユタ大だと思ったし、心臓移植も見てみたい。ユタ大への臨床心臓外科医としての日本人の留学は僕が初めてでしたが、なんとかツテをたどって紹介してもらいました」
半年で母校に呼び戻され、自分でチームをもってバイパス手術を行うようになる。その後、前述の胃の大綱動脈を使った新技術が学会で注目され、三井記念病院循環器科センターの外科科長に抜擢される。
「やりたいことができる環境はほしいし、そのために必要なポジションはあったほうがいい。でも、僕には地位や肩書きにたどりつきたいという欲望はありません。ただ、東京のにぎやかなところが好きだったから、迷わず上京しました(笑)」
三井記念病院に在籍中、須磨氏は世界20カ国で公開手術を行うなど海外でも活躍。その技術が高く評価され、2,000床規模、バチカンの指定病院にもなっているローマ・カトリック大学から心臓外科客員教授として招かれた。ローマに2年問滞在しながら世界各国をまわっていく中で、モンテカルロにあるモナコ心臓センターのコンサルタントも兼任することになる。
「日本では心臓手術といえば大学病院でしかやっていませんでしたが、この病院はたった38床しかない心臓の専門病院で、年間700件もの手術を行っているのです。
日本にも、こんな病院ができたらいいなと思うようになりました」 |
 |
| |
日本初のパチスタ手術。
遺族の手紙に後押しされ、
新しい手術法を開発 |
 |
日本で心臓の専門病院を作るため、須磨氏はローマから帰国した。そして、名乗りをあげた湘南鎌倉総合病院に副院長兼心臓血管外科部長として招かれる。
歴史に名を残すことになった日本初のバチスタ手術を行ったのは、帰国直後の96年のことだった。バチスタ手術とは拡張型心筋症の患者に対して行う手術で、肥大した心臓の一部を切り取り、縮小させるというもの。心臓移植以外に助かる見込みのなかった患者に、生きる希望をもたらした。第1号の患者は53歳の銀行員。
「できる限り勉強し、周到に準備を重ねた上での挑戦でした。今手術をしないとこの人は死んでしまうという状況の中で、ヨーロッパから1人、アメリカから2人、バチスタ手術をよく知っている世界的に有名な外科医が来てくれ、手術を始めました」
しかし、残念なことに、この手術で患者の命を救うことはできなかった。
「結果的にうまく行きませんでしたが、それでバチスタ手術をやめようとは思いませんでした。やり続ければ、助からない人を必ず助けられるという確信がありましたから」
手術後3カ月で、バチスタ手術を必要とする2例日の患者が現れた。もちろん、手術を行うことに迷いはなかったが、その思いをさらに後押ししてくれたのが、一例目の患者の妻からの手紙だったという。
「手術を受けるまで、本人が希望をもって生き生きと暮らしていた様子が書かれていました。その間、いい時間がもてたのだから、これからもバチスタ手術を続けて下さい、という本当にありがたい内容でした」
患者や家族との信頼関係を丁寧に築いてきた須磨氏の姿勢がこのエピソードから伝わってくる。その後、須磨氏はバチスタ手術を改良、死亡率を3分の1に減少させることに成功している。 |
 |
| |
心臓の専門病院を
日本に設立。
子どもたちに命の教育を |
 |
一方、須磨氏は、葉山ハートセンターをオープンさせた直後から、子どもを対象とした病院見学を開始した。すでに4,000人の子どもたちが病院を訪れたという。
「ローマから日本に帰ってきた頃、子どもの残虐な事件が相次いでいました。親のしつけが悪い、先生の教育が悪いと議論しても埒があかない。今の子どもには幸せになるイメージがないのだと思います。そこで、大人のしてあげられることは、現場で本物を見せること、それが一番わかりやすいのではないか。自分は医師だから病院を見せよう、と思ったのです。最初は病院をどこまで見せるか迷いましたが、手術まで見せようということに なり、大画面スクリーンのある部屋で手術風景をライブで見せることにしました」
あるときは、心臓の手術を受ける患者さんが、前の日に子どもたちと会って話をしてくれた。子どもたちは「怖いですか」とか「明日頑張って下さい」などと口々に声をかけ、次の日の朝、ストレッチャーで運ばれていく患者さんを見送った。手術が無事に成功したことわかると、手術中、息をのんで見守っていた子どもたちは涙を流して喜んだという。 |
 |
| |
自分の考えを的確に相手に伝え、
相手の求めていることを
短時間でつかむ |
「一流の心臓外科医になるには、どうしたらいいか」と質問を受けることも多いという。この問いに対し、須磨氏はこう答える。
「大切なのは、自分の考えることを相手に的確に伝え、 相手の求めていることを短時間でつかむ、この訓練を医療現場で目的意識をもってやることです。これは、今日からでもすぐできることです。患者さんと接したときに“○○さん、あなたは○○と言いたいのですね。○○してはしいのですね”とその都度自分が相手の望むことを正確に理解できたかどうかを確認します。相手に伝わらないとすれば、本人の修行が足りないか、本当に伝えたいという気持ちが足りないかのどちらかです。頭の中が整理できていて伝えたいという意思があれば絶対にコミュニケーションは成り立ちます。シンプルな表現方法をしてみるといいでしょう」
外科医は腕がすべてと思いがちだが、それだけでは十分とはいえないのだと須磨氏は強調する。
「麻酔のかかった人問を相手に凄腕を振るうのが外科医ではありません。手術を行う以前に、患者さんから“あなたなら切ってもらっていい、任せてもいい”と言ってもらえる関係を築いておかなければならない。医師の仕事は人あっての仕事です。どんなに自分がいいことをしたとしても、相手が理解して、それをよしとしなければ、なかったと同じ。“自分はコミュニケーションが下手だ”“患者にわかってもらえない”ということでは、医療は成り立たないのです」
葉山ハートセンター設立から5年。今、須磨氏は東京・六本木の財団法人心臓血管研究所でスーパーバイザーを務める。自ら心血を注いでつくった病院に執着せず、たった5年で後進に譲ってしまうところが、いかにも須磨氏らしい。
「やっぱり東京が好きなんです。毎日、海ばかりも見ていられませんしね(笑)。5年間で、社会的に認知してもらい、経営的にも成り立つようになりました。病院機能評価の認定も受けましたし、もう自分がいなくなってもやっていけるでしょう」
心臓血管研究所内の須磨氏の部屋には、進行中の手術の様子がリアルタイムで映し出され、須磨氏は常に手術の進行状況を見守っている。
朝6時、愛犬に起こされて朝の散歩、夜11時には床につくという。25歳で結婚した妻は医療とは無関係だが、困ったときには何でも相談するのだという。これまでのキャリアアップに果たした妻の役割も大きいのでは、とたずねると…。
「それが、すべてです」
一瞬の躊躇もなく、さらりと言った。
|
 |